劇場版ピンドラ前編所感(ネタバレあり感想)

※後日ネタバレなし感想も書きますので、ピンドラ初見の人はそっちを読んでください!頼みます!後生だから!
 
 
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初見の人は戻りましたね?OKOK。それでは語りましょう。
 
・OPでもう号泣
テレビシリーズの最後のシーン、転生した冠葉と晶馬が歩いて行くところ、そこから繋がるようにOPが始まったのがもう泣けた。
実写の池袋の背景に、小さいかんちゃんとしょうちゃんが佇んでいて、それも綺麗な背景だったもんだから、まるで2022年の私たちが生きる現実の中に2人が生きているように感じられて、しかもその「私たちが生きている現実」がとても美しいものであるかのようで。「自己犠牲で死を選んだ者へのごほうび」として生きている2人が存在する世界=明るく優しい希望の世界が、わたしたちの生きる世界なんだと思えて、ピンドラをみている私たちの世界も希望の世界なんだよと言われている気がした。ピンドラに入れ込みすぎて、ピンドラのことを「わたしたち(視聴者たち)の物語」だと思っている信者からすると、もうこの描写だけで、イクニパパから頭を撫でてあやされているような気分になってしまった。よーしよーし、泣かないでいいんだよ…といわれている気分になって、私は、潮干狩りで号泣した陽毬のような気持ちになってしまった。
見つけてくれてありがとう。わたしがピンドラを見つけたんじゃない、ピンドラがわたしを見つけたんだ…。(信者の顔)
 
・Rock Over Japanが撮り直されている
生存戦略〜!のバンクのとこの歌が、よりかわいい声になってる〜!
 
木村昴の演技がめっちゃうまくなっている
ピンドラの冠葉が、ジャイアン以降はじめてのメインキャラ役だったとのことで、当時は下手だって言われていたけど、劇場版でところどころ撮り直されていたり、新規要素の部分で、当時の演技との違いがよくわかり「うまくなったんだなぁ…」と実感した。ヒプノシスマイクやその後のアニメなどで彼の演技は聞いてきたけど、こうみるとすごく成長されているんだなぁ…と思いました。10年の歳月を感じた。
後述の追加要素の部分も、そのせいで、よりグッときました。
 
・お話の流れの再編集
ここが大きな違いかもね!キャラごとにお話がまとまっているから、テレビシリーズでは後半に出てきたようなエピソードも、この前編に出てきていた気がする。特に真砂子とか?(ちょっとうろ覚えだけど)
前半8話までの苹果の妄想劇場ががっつりカットされていてちょっと笑っちゃった。オブラートに包んで話すのはやめたんだな。よりしんどいけど大丈夫か?と思ったけどタマホマレガエルのギャグシーンは未カットだったので心のオアシスだった。確かにあそこらへんは晶馬と苹果のフラグ建設までの大事なところでもあるしな…。
スリードになりそうな部分とか、お話の本質以外の部分はバッサリ無くなっているから、すごく話が理解しやすく整理されているな〜と思ったけど、これはあくまでテレビ版を何周もした人の感想なので、初見の人はむしろこのスピード感についてこれるのか…と若干心配になった。
 
・マンションの前で、苹果が晶馬をシバきまくるシーン
桃果の代わりになろうとして、多蕗を好きにならなきゃいけない、とひとりでがんばってきた苹果が晶馬に「どうして私の前に現れたの!」と言うシーン、演出がめっちゃ変わってた!音楽がついて感動的になってて、苹果の心情がすごく突き刺さってきた。追加要素以外の部分で、ここが一番泣いちゃった。すごく切ないシーンに生まれ変わっていた。
テレビシリーズではギャグテイストでさらっと流された(ように見えた)シーンだったけど、苹果が晶馬への恋心を自覚する場面だったわけで。ここはすごく大事なところだったんだな…!
 
・追加要素①プリクリ桃果
星野リリィ先生の言葉を借りると、「全てが良い」…。
このコスチュームは桃果のためにあったのかと思うくらいしっくりきていた。加えて私は「ロリショタキャラの成長後の姿」がめっちゃ好きなのだ。エヴァのアスカ然り。大人(?)(10代くらいの設定かもしれんが)の姿の桃果+プリクリ衣装、かっこええ…。好き…。
プリクリ桃果と小さいかんちゃんしょうちゃんが並ぶと、おねショタみが…ごほんごほん。
 
・追加要素②桃果の「きっと何者かになれるお前たちに告げる!」
もうね、泣くよね。
テレビ放映時は「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」、あの頃のあの時代のわれわれ視聴者は、若者たちは、きっと何者にもなれなかった。誰もわたしたちの生き方を決めてくれなかったし、誰も教えてくれなかったから。「世界に大きな物語がない、その世界に生きる若者たちは何も定義されない、何者にもなれない。だからこそ、『あなた』のピングドラム=愛が必要だった」という物語だったわけだ。
しかし劇場版の物語は、そこから変化している。令和のこの時代は、わたしたちが「きっと何者にもなれない」ところから、変わったのだと、そういってくれるのだろうか。
ここもイクニパパからの、現代を生きるわたしたちへの贈り物のように思えた。
「きっと何者にもなれない」…つまりこうだ、放映時2011年の現代社会は、95年以降、絶望の時代なのだ。それを自覚しろ。だからこそ、『自分の選ぶ「家族」』で、互いに認め合い、愛を見つけろ、と。こういうことだった。
それが「きっと何者かになれる」…つまり、自己犠牲でごほうびをもらい転生した冠葉と晶馬が生きる現代、この2022年は、希望があるのだと。いやむしろ、おまえたちは希望を持って生きろ、と。そういうことではないのか。
 
・追加要素③プリンチュペンギンと、眞悧の「呪い」
プリンチュペンギンに憑依した眞悧(だよね?)(DAYONE☆)が、テレビ版で犯罪組織の指導者となった冠葉に「罪を犯した者は呪いから出られない」と脅した。
しかし、もう既に、これがなんとなく劇場版後半への「前フリ」っぽいな、と感じる。
「さらざんまい」の終盤で「自己犠牲なんてダサいことすんな」と、イクニファンからすれば衝撃のメッセージを残した。と同時に、さらざんまいは、自分の罪を償って泥臭く生きるという道を示した。
さらざんまいのラストシーンは、「希望を信じたい」というような、晴れやかで爽やでなおかつちょっぴり切ない、みたいな後味だったけど、劇場版ピングドラムでは、そこから更にアップデートされているのではないか。このご時世に、コロナ大流行という閉塞感の時代に、ピカピカの希望を示してくれるのではないか。なんて期待するわけです。
 
・追加要素④冠葉の独白
陽毬に向けた「好きだ」と言うセリフ。どストレート、ど直球。真に迫るものがありました。
テレビ版1話ラストで「俺は運命って言葉が嫌いだ」という独白と共に冠葉が陽毬にキスするシーンでは、「運命という言葉が嫌い」=実の妹の陽毬を愛してしまったのかな?と思わされた(実際ミスリードのための演出だったのかもしれない)けど、そのあと血が繋がっていなかったとわかる…ので、冠葉から陽毬への愛が、おおざっぱに「他者への献身的な愛」として描かれていた。気がする。
それが、明確に恋心として、強調して描かれたわけだ。はぁ〜〜〜〜〜。クソデカ感情に磨きがかかったってわけだ。はぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。とんでもねぇ…とんでもねえよ…。
 
・前編の全編を通しての所感
なんとなく、テレビ放映時の2011年と、この2022年では、変わったよね。というようなメッセージを感じました。実写の背景が使われている場面(池袋と荻窪)、どうして実写にしたのかと考えると、「2022年の現実世界」を意識させるためなんじゃないかと思いました。放送当時はそうだった(アニメのメッセージ)けど、今はどうかな?と、こちら側に考えさせるようだなと感じました。
事前に聖地巡礼の記事を読んで「荻窪は、ロケハンした当初から、けっこう変わっている」ことを知っていたので、まるで「あの頃から、世界は変わったよね」と言われているようにも感じました。これは解釈というよりはわたしの勝手な感想ですが。
 
輪るピングドラム」は、私たちが今生きている社会の状態を自覚させてくれ、そこから生き残るための「生存戦略」を優しい言葉で示してくれた、救いの物語でした。
この劇場版は、そのキラキラした救いを、さらに上塗りしてくれるような気がします。そしてこの物語が必要な人へちゃんと届いて、その人が、あたたかい気持ちになってくれたら嬉しいな〜と思っています。
後編も楽しみ!早く見たい!