積みゲーならぬ積み映画してる(見たい鬱系映画メモ)

はてなブログを活用しようという試みである。

今後メモ的な用途でも使っていきたい。

 

 

このようなツイートをしたところ、出るわ出るわ、気分が暗くなるおすすめ映画のオンパレード! ありがとうございます!

把握しきれなくなってきたので、ここに興味ある順でリスト化しておこうと思います。

匿名メッセージやリプライでいただいた説明なんかも一緒に残しておきます。(問題あったらご一報くださいね)

 

1、永遠のこどもたち

ホラーで少しグロい描写もありますが、映像がとても綺麗で、不穏で、見たあと2日ぐらいは引き摺ります。いつ、誰が、何がいけなかったのか?をずっと考えさせられる映画です。とても面白いです。

>「何がいけなかったのか?をずっと考えさせられる

答え出なさそうで不毛そうでビンビンくる〜♡ 鬱映画ランキングみたいなので調べた時に出てきたのですでにウォッチリストに入れている作品でした。実際に見た人が言うんだから間違いないね。

予告見たけどパンズラビリンスの監督なんですね!この心温まる感動系っぽい予告で引きずるってめちゃ良いですね

 

2、縞模様のパジャマの少年

ナチスホロコーストが題材の映画なのですが後味が非常に…キます…

後味悪い!それそれ〜!それが欲しかった! これも鬱映画で調べた時に出てきてウォッチリストに入れていた。好きそうという認識は正しそう。

予告編視聴後コメント:これ歴史の教材にもなりそうですね。

 

3、片山慎三監督作品

・さがす

そこにいた男

・岬の兄弟

邦画でAmazonプライム見放題の作品ですと、(ご存知かもしれませんが…)片山慎三監督作品はハズレがなくておすすめです。(佐藤二朗主演で少し前にTwitterでちょこっとバズった『さがす』の監督です)

新宿ホスト殺人未遂事件をモデルにした『そこにいた男』は30分足らずの短編ながら登場人物の対比や伏線が巧妙で、でもすっきりとまとまっており面白かったです。(血はそこそこ出ます)

『さがす』も胸糞かつ精神的にキュッとなる作品ですが、『岬の兄妹』はその比じゃないレベルで嫌な気持ちになり、大好きな作品なのですが2回目はもういいかな…となるかなりの良作です。こちらはかなり人を選ぶ作品なので、あらすじを読んで無理だなと思ったらご覧にならないことを強くお勧めします。

ゆ、有識者…ありがてぇ…。監督の名前も知りませんでした&めちゃめちゃ気になる&好きそうな匂いがプンプンします…。

「岬の兄弟」はプライムになったタイミングでおすすめに出てきて気になって(というか絶対好きそうだと思って)ウォッチリストに入れていました。他の方からもリプライで教えていただいたのでストライクっぽい…。

 

4、怒り

昼下がりのマンションで主婦が殺害され、現場には血の文字で「怒」と残されていた、という事件に纏わる、3組の人間関係を描いたストーリーで、知的障害を持つ娘とその父、ハッテン場で知り合った男と素性を知らないまま関係を深めていくゲイカップル、沖縄の高校生カップルと親交を深めていくバックパッカー、それぞれの闇と傷がじわじわと炙り出され、視聴後にざわざわと心にしこりを残す良作です。

めちゃめちゃレビューしてくれるやんけ…………

上映当時、他の映画見にいった時に予告編が流れてて気になってました…

 

5、以下、タイトルすら初見だったなどで同率で 予告視聴後の所感もメモしておきます

ゆれる人魚

→ファンタジーだ!!ホンマモンの人魚出てくるとは思わなくて二度見した

エクス・マキナ

→ロボット出てきたと思ったら…的な…手塚治虫みたいで世界観良い〜

クリムゾンピーク

→こわいハリーポッターみたい!ファンタジーな映像がきれい!あとパンズラビリンスの監督…そしてパシフィックリムもこの人だったのか…

箱庭の苦しみとか狂気とかを覗くの好きなのでそういうのが揃っております

とのことなので!!信用できるフォロワー情報、感謝…

 

聖なる鹿殺し

あまりグロくなくて不気味な映画がお好きでしたら、ヨルゴス・ランティモス監督の『聖なる鹿殺し』がジワっと気持ち悪くておすすめです。

→これは視聴後何か残すとか何か考えさせるよりもイヤな気持ちになるシーンや演出を楽しむものっぽいですね

マジカル・ガール

胸糞映画がお嫌いでなければ、カルロス・ベルムト監督の『マジカル・ガール』もイヤ〜〜〜〜な気分になれて良かったです。

どちらもAmazonプライムの見放題対象外の作品で恐縮なのですが、良作ですのでもし機会があればぜひご覧ください!

→これは嫌な気持ちになりそうだな〜wwwwww人間が嫌になりそうなやつだ 人間を馬鹿にしてそうで今の時点では好きじゃなさそうな予感がするwwwどうなんだろうwww

片山慎三監督作品おすすめしてくれたのと同じ方なので趣味が合いそう…

 

スクラップヘブン

→邦画だった これどこで知ったんですか…?どうやって見つけたんだ…はるか昔に見た「アナザヘヴン」に似た雰囲気を感じる…

メゾン・ド・ヒミコ

→監督「ジョゼと虎と魚たち」の人なんですね!これもよく見つけたなぁ…

インタヴューウィズヴァンパイア

→顔がいい人外がたくさん出てくるっぽい

太陽と月に背いて

→もしかして…美少年レオナルド・ディカプリオを楽しむ映画?

なんや理解がありそうなフォロワー氏、BIG THANK YOU...

インタヴューウィズヴァンパイア」はサンホラの曲の元になってる説があったので気になってました!

 

ナイトメアアリー

→レビューでスリラーとかホラーよりもジョーカーに似た雰囲気って見てジョーカーすきだったワイ期待高まる

見せ物小屋と詐欺師の話。絵が良く精神的にちょいくるオチでしかし始終上品です。

127時間

→求めてた雰囲気とは違うけど好きなタイプかも

実話を元にした事故の話で、詳しい行き先を告げぬまま山で腕が岩に挟まった人が自分で自分の腕を切断します。ネタバレですが(中略)精神的にかなりキます。

沈黙

→これも歴史の教材にしてもよさそうね

キリシタンが弾圧されていた時代に日本に来た宣教師の話。救いとは神とは…とか考えてる間にバンバン自分を慕ってくれた貧しい善良な信者が惨殺されるので精神的にとてもキます。

 

ババドック

→けっこうホラー!でも痛そうとかより悪夢系で良さそう ちょっとジュマンジみたい

ホラー強めのなんとも言えない気持ちになります!
私の記憶が正しければグロはなかったと思います

 

ジョゼと虎と魚たち

韓国版とかアニメ版とかあるのですが、2003年公開の妻夫木主演のやつがおすすめです!暗い話とかじゃないんですが、個人的に悲しい気持ちになりました…綺麗な映画です。

有名な作品だけど見たことなかったので一度は見てみたい!

→アニメ版予告だけでも泣けちゃった 実写映画版はいい意味で地味で好きな雰囲気

 

嫌われ松子の一生

女教師がひょんなことからどんどん転落してく話です。辛い気持ちになりますが、演出が皮肉なくらい明るいので圧倒されてるうちに見終わります。

これもむかしよく宣伝されてましたよね! 「ヘルタースケルター」が割と好きだったので好きかも〜

→うわ〜〜〜〜めちゃめちゃ平成だああああ 火サスBGMもやばいwwwww平成感じたいが為に見たいかも

 

・渚のシンドバット

・ハートストーン

どちらも学生の少年たちの不安定で繊細すぎる心の、恋愛とか友情の話です。というとすごく雑な紹介なんですが、どちらもすごく胸がキュッとなる、悲しい気持ちになる…でも「かけがえのない」を考える理由になるような映画です。

 

・ワン・デイ 23年のラブストーリー

>めっちゃおもしろいけどダウナーになる

→ラストが悲しそうハッピーエンドじゃなさそうでハッピーラブラブな話とはまた違ってて良さそうですね…悲恋な予感がする…

 

青春・ロマンス系は鬱系映画の合間合間にいいかもしれない…いや、合間に見ると痛い目を見るのか…?「何者」とかも気になってるんですがそれ系統と考えるといいかな?どうでしょう?

 

【追記】

ジェーン・ドウの解剖

>ホラー過ぎますか?

予告見たけど怖そう〜〜〜1人じゃ見れないかも でもおもしろそうですね…

ソウ1いけたらいけますかね?あれも(どっちかというと痛そうで)怖いけどおもしろかったからギリ楽しめた。(ソウ2以降はゴア表現中心になってスプラッタ処刑エンタメになってるっぽいから見るの諦めてる…)

 

おすすめしてくれた方、ありがとうございました! 観たらぜひ感想言いますね!

 

劇場版ピンドラ前編所感(ネタバレあり感想)

※後日ネタバレなし感想も書きますので、ピンドラ初見の人はそっちを読んでください!頼みます!後生だから!
 
 
・・・・・
・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・。
 
 
初見の人は戻りましたね?OKOK。それでは語りましょう。
 
・OPでもう号泣
テレビシリーズの最後のシーン、転生した冠葉と晶馬が歩いて行くところ、そこから繋がるようにOPが始まったのがもう泣けた。
実写の池袋の背景に、小さいかんちゃんとしょうちゃんが佇んでいて、それも綺麗な背景だったもんだから、まるで2022年の私たちが生きる現実の中に2人が生きているように感じられて、しかもその「私たちが生きている現実」がとても美しいものであるかのようで。「自己犠牲で死を選んだ者へのごほうび」として生きている2人が存在する世界=明るく優しい希望の世界が、わたしたちの生きる世界なんだと思えて、ピンドラをみている私たちの世界も希望の世界なんだよと言われている気がした。ピンドラに入れ込みすぎて、ピンドラのことを「わたしたち(視聴者たち)の物語」だと思っている信者からすると、もうこの描写だけで、イクニパパから頭を撫でてあやされているような気分になってしまった。よーしよーし、泣かないでいいんだよ…といわれている気分になって、私は、潮干狩りで号泣した陽毬のような気持ちになってしまった。
見つけてくれてありがとう。わたしがピンドラを見つけたんじゃない、ピンドラがわたしを見つけたんだ…。(信者の顔)
 
・Rock Over Japanが撮り直されている
生存戦略〜!のバンクのとこの歌が、よりかわいい声になってる〜!
 
木村昴の演技がめっちゃうまくなっている
ピンドラの冠葉が、ジャイアン以降はじめてのメインキャラ役だったとのことで、当時は下手だって言われていたけど、劇場版でところどころ撮り直されていたり、新規要素の部分で、当時の演技との違いがよくわかり「うまくなったんだなぁ…」と実感した。ヒプノシスマイクやその後のアニメなどで彼の演技は聞いてきたけど、こうみるとすごく成長されているんだなぁ…と思いました。10年の歳月を感じた。
後述の追加要素の部分も、そのせいで、よりグッときました。
 
・お話の流れの再編集
ここが大きな違いかもね!キャラごとにお話がまとまっているから、テレビシリーズでは後半に出てきたようなエピソードも、この前編に出てきていた気がする。特に真砂子とか?(ちょっとうろ覚えだけど)
前半8話までの苹果の妄想劇場ががっつりカットされていてちょっと笑っちゃった。オブラートに包んで話すのはやめたんだな。よりしんどいけど大丈夫か?と思ったけどタマホマレガエルのギャグシーンは未カットだったので心のオアシスだった。確かにあそこらへんは晶馬と苹果のフラグ建設までの大事なところでもあるしな…。
スリードになりそうな部分とか、お話の本質以外の部分はバッサリ無くなっているから、すごく話が理解しやすく整理されているな〜と思ったけど、これはあくまでテレビ版を何周もした人の感想なので、初見の人はむしろこのスピード感についてこれるのか…と若干心配になった。
 
・マンションの前で、苹果が晶馬をシバきまくるシーン
桃果の代わりになろうとして、多蕗を好きにならなきゃいけない、とひとりでがんばってきた苹果が晶馬に「どうして私の前に現れたの!」と言うシーン、演出がめっちゃ変わってた!音楽がついて感動的になってて、苹果の心情がすごく突き刺さってきた。追加要素以外の部分で、ここが一番泣いちゃった。すごく切ないシーンに生まれ変わっていた。
テレビシリーズではギャグテイストでさらっと流された(ように見えた)シーンだったけど、苹果が晶馬への恋心を自覚する場面だったわけで。ここはすごく大事なところだったんだな…!
 
・追加要素①プリクリ桃果
星野リリィ先生の言葉を借りると、「全てが良い」…。
このコスチュームは桃果のためにあったのかと思うくらいしっくりきていた。加えて私は「ロリショタキャラの成長後の姿」がめっちゃ好きなのだ。エヴァのアスカ然り。大人(?)(10代くらいの設定かもしれんが)の姿の桃果+プリクリ衣装、かっこええ…。好き…。
プリクリ桃果と小さいかんちゃんしょうちゃんが並ぶと、おねショタみが…ごほんごほん。
 
・追加要素②桃果の「きっと何者かになれるお前たちに告げる!」
もうね、泣くよね。
テレビ放映時は「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」、あの頃のあの時代のわれわれ視聴者は、若者たちは、きっと何者にもなれなかった。誰もわたしたちの生き方を決めてくれなかったし、誰も教えてくれなかったから。「世界に大きな物語がない、その世界に生きる若者たちは何も定義されない、何者にもなれない。だからこそ、『あなた』のピングドラム=愛が必要だった」という物語だったわけだ。
しかし劇場版の物語は、そこから変化している。令和のこの時代は、わたしたちが「きっと何者にもなれない」ところから、変わったのだと、そういってくれるのだろうか。
ここもイクニパパからの、現代を生きるわたしたちへの贈り物のように思えた。
「きっと何者にもなれない」…つまりこうだ、放映時2011年の現代社会は、95年以降、絶望の時代なのだ。それを自覚しろ。だからこそ、『自分の選ぶ「家族」』で、互いに認め合い、愛を見つけろ、と。こういうことだった。
それが「きっと何者かになれる」…つまり、自己犠牲でごほうびをもらい転生した冠葉と晶馬が生きる現代、この2022年は、希望があるのだと。いやむしろ、おまえたちは希望を持って生きろ、と。そういうことではないのか。
 
・追加要素③プリンチュペンギンと、眞悧の「呪い」
プリンチュペンギンに憑依した眞悧(だよね?)(DAYONE☆)が、テレビ版で犯罪組織の指導者となった冠葉に「罪を犯した者は呪いから出られない」と脅した。
しかし、もう既に、これがなんとなく劇場版後半への「前フリ」っぽいな、と感じる。
「さらざんまい」の終盤で「自己犠牲なんてダサいことすんな」と、イクニファンからすれば衝撃のメッセージを残した。と同時に、さらざんまいは、自分の罪を償って泥臭く生きるという道を示した。
さらざんまいのラストシーンは、「希望を信じたい」というような、晴れやかで爽やでなおかつちょっぴり切ない、みたいな後味だったけど、劇場版ピングドラムでは、そこから更にアップデートされているのではないか。このご時世に、コロナ大流行という閉塞感の時代に、ピカピカの希望を示してくれるのではないか。なんて期待するわけです。
 
・追加要素④冠葉の独白
陽毬に向けた「好きだ」と言うセリフ。どストレート、ど直球。真に迫るものがありました。
テレビ版1話ラストで「俺は運命って言葉が嫌いだ」という独白と共に冠葉が陽毬にキスするシーンでは、「運命という言葉が嫌い」=実の妹の陽毬を愛してしまったのかな?と思わされた(実際ミスリードのための演出だったのかもしれない)けど、そのあと血が繋がっていなかったとわかる…ので、冠葉から陽毬への愛が、おおざっぱに「他者への献身的な愛」として描かれていた。気がする。
それが、明確に恋心として、強調して描かれたわけだ。はぁ〜〜〜〜〜。クソデカ感情に磨きがかかったってわけだ。はぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。とんでもねぇ…とんでもねえよ…。
 
・前編の全編を通しての所感
なんとなく、テレビ放映時の2011年と、この2022年では、変わったよね。というようなメッセージを感じました。実写の背景が使われている場面(池袋と荻窪)、どうして実写にしたのかと考えると、「2022年の現実世界」を意識させるためなんじゃないかと思いました。放送当時はそうだった(アニメのメッセージ)けど、今はどうかな?と、こちら側に考えさせるようだなと感じました。
事前に聖地巡礼の記事を読んで「荻窪は、ロケハンした当初から、けっこう変わっている」ことを知っていたので、まるで「あの頃から、世界は変わったよね」と言われているようにも感じました。これは解釈というよりはわたしの勝手な感想ですが。
 
輪るピングドラム」は、私たちが今生きている社会の状態を自覚させてくれ、そこから生き残るための「生存戦略」を優しい言葉で示してくれた、救いの物語でした。
この劇場版は、そのキラキラした救いを、さらに上塗りしてくれるような気がします。そしてこの物語が必要な人へちゃんと届いて、その人が、あたたかい気持ちになってくれたら嬉しいな〜と思っています。
後編も楽しみ!早く見たい!
 

 

 

ミッドサマーで気持ちが塞いだ率直な感想文

 

ひとりにして欲しい。

 

www.phantom-film.com

 

※ネタバレしかないのと、映画がR15指定で刺激的なシーンへの言及もありますので注意してください。

 

 

映画『ミッドサマー』。溜息しか出ない。またトラウマ映画をひとりで観に行ってしまった。帰ってきて、本当はあまり何もしたくないしシャワーも浴びず布団を頭までかぶって寝てしまいたいんだけど、自分の気持ちを切り替えるため、そしてこの映画を観なくてもいい人が「話題になっているから」という理由で軽い気持ちで観に行ってしまうのを防ぎたいので書くことにする。

 

私にはトラウマになっている映画が二つあって、一つは『羊たちの沈黙』、もう一つが『シン・ゴジラ』だった。前者は猟奇殺人犯が、後者はゴジラという巨大生物が怖かったという、方向性が違う怖さなんだけど、どちらも余韻が長くてしばらく忘れられなかった。『ミッドサマー』は、また新しい方向性の怖さだった。「怖い」という感情ではないかもしれない。とにかく気持ちが落ち込んだ。

この、よく言われる「トラウマ」とは、映画に限らず私たちにいつでも起こりうる。良くも悪くも人生に影響を与え、その後のその人の心に鮮烈なイメージを残すものだ。多くの人はそれをネガティブに捉えがちだが、私はそれをポジティブに捉えようと思う方の人間だ。なんだって経験なのである。幼い頃の劣悪な環境が原因で心を病んだ人間が素晴らしい芸術家になるなんてよくある話だ。

しかししかし。そういう経験は、しなくていい。基本的にはしなくていい。しないほうがいい。できれば回避すべきである。あなたは、トラウマになるということがわかっていて、その後の人生に多大な影響を及ぼすとわかっていて、虐待をする母親から生まれてきたいと思うか? または暴力を振るう父親の元に生まれたいと思うか? 生まれなくていい。選べるなら、他の親を選んだ方がいい。ミッドサマーじゃなくて、他のハッピーな映画をみた方がいい。

ショックを受けたことってしばらく頭から離れない。忘れたくてもその「忘れたい」という気持ちすら湧かなくて、ただ打ちひしがれることしかできない。「忘れたい」という気持ちが湧き上がってきた瞬間から心は元気を取り戻していて、日常に戻れる。心は元の状態に、本来自分が持っていた状態に戻れる。

ただ、一度ショックを受けた心は、似たようなショックを受けたとき、「またか」と思うらしい。ぶっちゃけて言っちゃうと、気持ちよくなってしまう。ショックを受けて気が落ち込んでしまうのを「受け止めて」しまうらしい。心理学的なことやそういうメカニズムのことはよく知らないし、私だけかもしれないけど。無気力になり、IQ2になり、電話に出られなくなり、立ち上がれなくなり、頭が重くなり、喋る気すら起きなくなり、頭を抱え、溜息をつくだけの人間になる。鬱である。

そう考えると、私は現在進行形でマジでガチでバチバチにキマっている。これはキマっている人の文章です。

 

www.nicovideo.jp

キマっているといえば、この手の動画を見てやってみたことがある人ならわかると思う、視界がぐにゃ〜ってなるやつ。ヤクブーツをやるとこんななっちゃうらしいんだけど、主人公(たち)がクスリをやって(もしくはやらされて)トリップしてる場面では画面がこんな風にぐにゃ〜ってなってる。最後の方はけっこうずーっとぐにゃぐにゃしていて、まるで自分もトリップしてしまったかのような気分になる。トリップするってこんな感じなのか…みたいな。見る麻薬とか言ってる人がいるのは多分この辺が原因。あと主人公の頭のお花が一個だけず〜〜〜っと動いてて、呼吸してるみたいに開閉しているの。生花が一個だけ。その一点が気になっちゃって、自分も幻覚見てるのか?みたいな気分。エンディングテロップで同じような動きをしたお花がちりばめられてて、ああやっぱりそういう演出だったのね…怖…となった。

 

この映画を観終わって感じた余韻、まず思い出したのは『さよならを教えて』という伝説の鬱エロゲー。界隈では有名すぎる「注意書き」がある。

 

このソフトには精神的嫌悪感を与える内容が含まれています。以下に該当する方は購入をご遠慮くださるようあらかじめお願いいたします。

⚫︎現実と虚構の区別がつかない方

⚫︎生きているのが辛い方

⚫︎犯罪行為をする予定のある方

⚫︎何かにすがりたい方

⚫︎殺人癖のある方

 

このゲームのストーリー(結末)を知ったあとは、丸1日寝込んでしまった。同じような鬱状態である。救いがない、人生は苦しい、あぁ……。と嘆くだけの1日を過ごしてしまった。『ミッドサマー』、これぐらい注意書きをしておいた方がいいんじゃないだろうか。人生で鬱経験のある人は、フラッシュバックみたいな感覚に陥ってしまう可能性があるよ。

 

この映画で一番「ホラー映画っぽい」のは冒頭10分。予告編の明るい映像のイメージでいたから最初は、えっ普通に怖くね? と思った。不安を煽るような、高い音で小刻みなBGMはヒッチコックのサイコ的な古典的サスペンス手法なんだろうし、暗い画面でじわじわとズームになるところとか、ホラー映画やサスペンス映画〜って感じの怖さだった。あ〜〜怖いよ〜〜画面が斜めで不安だよ〜〜半分くらい暗くて隠されてるよ〜〜なに〜〜なんか起こるぞ〜〜ヒィ〜〜死体〜〜!! みたいな。

主人公の両親の(きれいめの)死体と、妹がホースを口にガムテープ?で自分で貼り付けて自殺したところとか、けっこうそれだけでショッキングなんだけど、これが冒頭10分。冒頭……10分。ここでオープニング。もう気が思い。

 

本当に注意書きしておきたいんだけど、いろいろ言っている人もいるし監督もこう思って作ったよ〜みたいなこと言ってる記事がいろいろあるようですが、これはホラーでスリラーでサスペンスなので、そういうジャンルが好きな人だけみにいってください。得意じゃない人にはおすすめしません。「コメディだった」「恋愛映画だった」って言っている人はだいたいホラーとかサスペンス慣れしてる人が言ってるから。そういう映画が好きで耐性あってよく見る人が「これはホラー・サスペンスのなかでもコメディといえる」「これはホラー・サスペンスのなかでも恋愛映画といえる」って言ってるだけだから。

 

話を戻そう。ホラーっぽい冒頭10分が終わると、もうあとは、あまりホラーっぽい演出はなくなる。怖いっぽいBGMも怖いっぽい驚かしも、最後までない。移動する途中で主人公がトイレの暗がりに親の顔を幻視するところなんかはまだ普通に怖いけど。ちょっとサスペンス要素を残している。わぁ怖い;;ヒィ;;幻覚見てかわいそう;;;てなる。でもそのあとは予告で見た、明るい青空と綺麗なお花と白い服ばかりになる。夏のからっとしたいいお天気なんだろう。日本の夏のじめっとした感じとは全然違う。過ごしやすくてあたたかくて爽やかで、とても白い。ただ、その村に辿り着くまでの車で移動するシーンが、上下逆さまになっていて、じめっとしたカメラの移動のしかたで、すごく不安を煽られる。あぁ…行ってはいけないところに行くんだな…行きたくないな…という気分になる。

最初に来るのは、老人夫婦らしき二人が崖から飛び降りる儀式。手のひらをナイフで深めにビーッと刺して、その血を石盤に塗るところからもう既に気分が悪くなったんだけど、だめだ早い。耐性がない。崖の上に立った時点でもう、ああそうなんだろうなと思ったけど、まず女性が飛び降りて、下にあった石に正面からぶち当たって顔が潰れる。それがいきなり画面に大写しにされる。男性も飛び降りるけど、一発で死ねなくて、足が変な方向に折れ曲がっていて骨が見えていて、苦しんでいる。女性の時は静かにしてた村の人たちが一斉に嘆き初めて、大きなハンマーで男性の頭が砕かれる。バコ、ベコ、みたいな嫌な音がして、半分になった顔面とかが大写し。配慮なし。

ここのシーンがこの映画で一番嫌な気持ちになってしまったところなんだけど、なぜならこの後に出てくるゴアシーンは、指の隙間から画面を見ていたから。ここは防ぎようがなかった。俺は弱い。

あっ……?と思っているあいだに、怖い演出もなにもなく突然人の裏側が画面に出てきたら、未知の感覚にとらわれるに決まっている。日中、当然のように人の裏側を見せるような場面に、誰だって遭遇したことがないからである。

老人はああやって死ぬことで命が円環となり〜みたいに、ここでの風習なんだとかいろいろと説明されて、「ここの人たちにとっては、老人を施設に入れるほうがショッキングかも」と主人公は諭される。はいこれ、「トラウマをなんとかいい方向に受け止めようとする心の動き」です。みんな絶対真似しちゃいけないからね。いやだったら逃げてもいいんだよ。

そう、怖かったことや嫌だったことをポジティブになんとか受け入れようとすることって、過大なストレスを伴うのである。トラウマを克服する方法、人によって違うと思うけど、受け入れようとしないでいい、と私は思う。忘れていい。なかったことにしようとしたっていい。なぜならそのトラウマは「起こらなくてもよかったこと」なのである。この出来事があったから私は強くなれたとか、今の自分がいるとか、思えるあなたの心のあり方は尊敬できるし、気高い魂を持っていると思うけど、無理にそう思おうとはしなくてもいい。

でもこの映画はそのストレスと、ずっと向き合うことになる。過大なストレスを伴いながら、辛いことも恐ろしいことも受け入れていく方向に「怖い」のである。だから人によっては、この「怖さ」が「怖さ」ではなく、「浄化」になる、んだと思う。最終的には主人公は、自分もその儀式の一部になって恋人を殺して、晴れ晴れとした顔になっているし、最後らへんで自分を祝福してくれる村人の中に母親の顔を幻視している。アカン方向に強くなっちゃってる。

 

最後の方、怖すぎて滑稽だったところがたくさんあった。主人公の恋人が全裸で村中を逃げ回って小屋に入ったら友人が鶏の餌になってるのを見つけた時とか、めっちゃグロいんだけど完全にコメディの文脈だったし、主人公の過呼吸と泣き声を真似されるのも、すっごい奇妙だけど、それを引きのカメラでうつされると、冷静にその状況を見れちゃって、なんだかおかしい。最初はサスペンスからはじまり、怖〜い雰囲気がだんだんオープングロ、オープン狂気になっていって、どんどんコメディになっていく。最後は主人公が満足そうな顔になって終わる。だからこれをハッピーエンドだっていう人もいるし、救いだっていう人もいる。

 

ン〜〜〜〜〜〜〜〜〜なわけあるか!!!!!!!!!!!

 

悪趣味だし、ぜんぜん笑えない。なんて野蛮な映画なんだろう。『地獄でなぜ悪い』の時と同じ胸糞悪さである。これ見て楽しい〜!エキサイティン!大好き〜!ってなる人の気持ちがわからん。野蛮すぎる。人はこんなにも野蛮なのか。怖すぎる。人間怖い。

私はこの映画を観て嫌な気分になったし、映画の批判ではなく、一つのファンの感想として、途中から見るのがつらくなったし気が塞いだ。この映画のファンの感想として、人にはおすすめしたくない映画だ。こんな(いい)気持ちになるのは(なれるのは)、私のような人間ぐらいでいい。

 

未知の感覚だとか、新しい映画だとかいろいろ言われているようだけど、洋画の(悪いけどひとくくりにしてしまいます)あまり好きではないところがこの映画にもあって、そこもある意味では嫌な気持ちになった要因の一つ。それは登場人物が愚かな行為をしたために殺されたり酷い目にあうってところ。この映画でいうと、論文を書くために大切な書物の写真を撮っていいか?と言ったら断られたので、夜こっそり忍び込んで写真を撮りにいく、案の定殺される、とか。チャラい男が立ちションしてたらその木は大事な木なんだ!!!その男のナニを切りおとせ!!!って激怒されて、のちにやっぱり殺されるとか。いや当たり前やろ〜!なんでそういうことするのバカ〜!ってこと、洋画のホラーやサスペンスにけっこうないですか?こんなバカな奴なんか皆殺しにされてしまえ…って思っても仕方ないよね。そういう手法なのか?あれが個人的には好きじゃない…。邦画だけど『悪の教典』の生徒たちとかも同じ理由で好きではない。生徒を殺しまくる先生に対して、性格悪い奴とか他人を貶めて自分だけ助かろうとする奴とかがいたほうがおもしろいんだろうけど。でもそういう人が一切いなくて、みんなで協力してるのに先生には勝てないってほうが怖くない?結局怖いのは、怖い風習でもサイコ人間でもなく、普通の人間なのか…いやだ…ってなる。まだ、猟奇殺人犯とか巨大生物とかを怖がってる方がいい。普通の人が一番怖いじゃん…ってなる。

そう、普通の人が一番怖いのである。もういやだ。

 

でも、人は怖いことにも勇気を出して立ち向かわなければならない場面がたくさんある。生きることは戦いなのである。人生、苦しいことでいっぱいだ。生きることは苦しみなんだ。もういやだ。立ち向かっていかなければならないのだ、私たちは。ああもういやだ。泣きそうだ。ちょっと泣いてる。

 

という感じで、精神的にまいっている人や自殺願望のある人は見に行かないことをお勧めするし、気が塞ぎがちな人は内にこもってしまうと思うので、観に行かない方がいい。観に行くにしても、信頼できる友達と、大事な人と、もしくは底抜けに明るい人と観に行くのがいい。しかも、薄っぺらい感想じゃなくて、観た後に自分の心境をちゃんと打ち明けられるような友人と一緒なのがいいと思う。

私はひとりで観に行ってしまったので、もう内にこもるしかない。せめて静かな場所で、落ち着くまで、元気になるまで、ひとりで過ごさせてくれ。ただ頭を抱えて、打ちひしがれる時間をくれ。ハァ〜〜〜〜〜〜〜〜。(クソデカため息)

 

ひとりにして欲しい。

 

 

 

シン・ゴジラがひたすら怖かった率直な感想文

今週のお題「映画の夏」

 

www.shin-godzilla.jp

  

 

※ネタバレしかないので注意してください。

 

シン・ゴジラ」。

地元の映画館のレイトショーにひとりで観に行って、エンディングのテロップが流れおわって、劇場が明るくなって、他の人たちがぞろぞろ帰っていくなか、椅子から立ち上がれず頭を抱えていたら、あの人大丈夫…?みたいな声が後ろから聞こえて恥ずかしくなったので立ち上がったけど、ふらふらとした足取りで映画館を出たし、帰り道もずっと正気に戻れなくて、チャリをこぎながらもずっと打ちひしがれていた。

お化け屋敷が苦手で、はじめて行った富士急ハイランドの「戦慄迷宮」では、おばけから走って逃げて出口から出たあと、怖すぎて腰が立たなくてへなへな座り込んでしまったんだけど、あのときの感じとちょっと似ている。それか、成人してはじめて乗ったディズニーシーの「タワー・オブ・テラー」、あれもフラフラしながら出てきたし、「もうなんかよくわからないくらい余裕なかった…」としか感想が出てこなかった。

シン・ゴジラ」、パニック映画でも娯楽映画でもなんでもない、あれはアトラクションだ。すごかった、すごかった。いい意味じゃない、悪い意味で。私にとって数少ない、ものすごいトラウマレベルの映画になってしまった。

 

はじめに言っておくと、私はアニメオタクだけど「エヴァ」シリーズを今まで一度も観たことがないし、実写の特撮としての「ゴジラ」シリーズにもほとんど触れたことがない。いっっっちばん最初の「ゴジラ」は確か大学の映像の授業で見せられたけど、ほとんど覚えてない。全然印象に残らなかった。だからある意味、すごく純粋にこの映画を楽しめたんじゃないかと思う。

実写映画のゴジラモスラなんて全然興味なかったし、少し前に友人たちがハリウッド版ゴジラの最新作観に行くから一緒に行く? という話になっていたときにも、アタシ興味ないからパス~だった。

じゃあそもそもなんで観に行ったかというと、観に行った人がツイッターで絶賛していて、何度も観に行っていることを知っていたからだ。すごくいいよ! みんな観に行ったほうがいいよ! と喧伝していたので、そんなにおもしろいのか~だったら観に行かなきゃ~! くらいの、すごい軽い気持ちだった。前情報は、他の映画を観に行ったとき流れてた、人々が逃げ惑うだけの予告編と、監督・庵野秀明という情報。もうこの時点でけっこう興味を引かれてた。本当に軽い気持ちで、アニメ映画を観るくらいの気持ちで行ってしまった。

結果、大敗北。

 

もうずっとノンストップだし、現実がひたすら突きつけられるし、観てる最中口を手で覆っちゃうし、ウワーッとかイヤーッとかええっ…!?ウソ…!?とか本当に声が出た。お化け屋敷で驚かされてウワーッと反射的に声が出るのと同じ感じ。しかもそれがわざとらしい演出で驚かされるとかビックリさせられるんじゃなくて、じわっとくる現実的な怖さで、ってところが打ちのめされポイント。

なにが怖いかって、もう全部怖かったんだけど、まず最初にトンネルを走っていた車が(しかも車の主観視点で)赤い液体に襲われたところで、もうめっちゃ無理だった。もうしょっぱなから臨死体験した。うわこれ死んだでしょ…ってめっちゃビビった。

未知の生物かなにかもわからない状況で、スマホで撮影とか危機感のない民衆とかニコニコ的なコメントつきの動画とか、そういう馴染みの深い映像が、とくに誇張もされず、しかもパッパッと切り替わってどんどん表現されていくところ、月並みだけどすごくリアリティを感じられた。だいたいがもう、最初のゴジラ出撃のパートだけでめちゃめちゃめちゃめちゃ怖くて、第二形態になった時とかもうこれ以上はいやだ!やめて!ってなったから、いったん退いていったのはとにかくホッとした。ずっとこんなのが続くのかと思ってイヤになりそうだったけどそこは小休止挟めてよかった…。

無駄に民衆が殺されていく場面はないから、逆に「うわっ死んだ」って思ってしまうシーンがひとつひとつ重くのしかかってくる。

ゴジラ(小)のまだ小さくてウネウネ動き回って、目をがギョロギョロで、エラみたいになってる胸から赤い体液をジョバァと垂れ流すのがもう本当に生理的に嫌悪感をもよおしたし、めっちゃ気持ち悪かった。(そういえば、エヴァの機体? 敵? が傷ついたところからああいう赤っぽい体液を流すのはなんとなく知ってるぞ! 今思い出した)

 

リアルで怖いと思ったところ、最初に第一形態でゴジラがあらわれたとき、舟が川に押し上げられて小さい橋や周辺の家屋を壊して…っていう描写、3.11東日本大震災津波の映像を思い出させるものだった。あれをリアルタイムでテレビのニュースで見たときには本当に驚いたし、本当に日本で起こっている出来事なのか? って絶句した。あのときの怖い気持ちを思い出してしまった。あと、偉い人たちの記者会見の様子も、当時の状況を彷彿とさせた。マンションで荷造りしてた家族の部屋が壊されてめちゃめちゃにされるシーンもほんと無理。

あと、ゴジラに核を落とそう、ってなったとき、サブリミナルみたいに流された、日本の原爆の悲惨な映像。白黒。学校の授業で見たことあるやつ。あれが再び日本に、って想像させられて、人間の怖さも感じさせられてしまったのほんとダメだった。もうなにも信じられない。

 

あとあの、なに? 破壊光線、ゴジラの口と背中から出てくる破壊光線がマジで無理だった。あれが一番怖い。

無慈悲で、圧倒的で、美しくすら見える(私には全然美しく見えなくて怖いだけだったけど)ゴジラが破壊光線を出して、アメリカの強い武器を持つ機体すらも一撃で殺してしまって、東京をめちゃめちゃにしていくところ、ひたすらひたすら息苦しかった。実際呼吸できていたかどうかも怪しい。ああいう絶望的なシーンでオーケストラの美しい壮大な音楽を流すところがきっと監督の持ち味みたいなものなんだろうな。エヴァといえば第九っていうのは知ってる。

総理が乗ったヘリが破壊光線で…されたところ、イヤーッと声が出てしまった。つらかった。

後ろにチラッとテレビの映像で、亡くなった総理と首脳たちの写真が一覧で並べられていたのが見えたのも怖かった。バーンと映すんじゃなくて視界の隅にあるって感じで、ピントあってなくて、でも数秒くらい?しっかりと、写真が並んでいる画面が見えるの。ゾっとした。

 

最後の作戦をはじめるときも、矢口も他のみんなも、日本の存続をかけた戦い、みたいなかっこいいこと言ってるしみんな一丸となっているんだけど、みんな全然誇らしげじゃないし、逆につらそうなのがすごくきた。第一小隊が全滅した報告を受けたとき、悲しそうに目を閉じてぐっと耐えてた矢口の描写も本当にただつらくて、悲しかった。

だいたいがこの映画に出てくる人たちはみんな、優秀で賢い人ばかりで、高い給料貰って働いてるだけはあるんだなって思わせたし、粛々と懸命に考えて行動してるし、誰一人として規律を乱そうとせずヘマをする輩もおらず、それなのに太刀打ち出来ないものだから、よけいに絶望感が増した。自衛隊の、最初からその覚悟は出来ています、とか、仕事ですから、とかそういう、さらりと交わされる台詞がほんとうに格好良い。だからゴジラがそんな人々を、人々が守ってきた場所を、民衆を、見知った街を壊していくところを見るのは耐えられないほどつらかった。こんな馬鹿な奴らなんかモンスターに皆殺しにされてしまえ、とか全然思わなかった。もうやだ…ってひたすらヤダヤダしてた。

 

作戦が成功してゴジラを止められた時にも、みんなワーッと喜ばない。みんなただただホッとしている。溜め息すらついてる。そういう人々の様子にもすごく叩きのめされてしまった。ただひたすらに悲しかったし、つらかった。

きっとこれが海外の、それこそハリウッド映画とかだったら、みんなハグして笑顔で熱狂的に喜んでいるシーンがあったんだろうけど、日本はそういう国じゃないんだな、って思わせるものだった。この、みんなホッとしているシーンがつくりものの演出なんだとわかっていても、ああ本当にこれがリアルなんだな、って思わせる説得力があった。

ゴジラはまだそこにいて、姿が見えていて、事態は収束したわけじゃない、ってなるのも無理だったし、ラストシーンの尻尾の大写しで終わるところも、最後まで安心させてくれなかった。よかったね、のハッピーエンドなんかじゃなかった。だから最後まで猛スピードで駆け抜ける暴走列車に乗っていた気分になった。

こういう系の作品を少しでも見ていると(というか絶望とかカタルシスが気持ちいいタイプだと)、最後の決戦で圧倒的に強力な敵をいいところまで追いつめるシーンに来たときに、そのまま順調に倒してくれ! っていう気持ちと、いや、圧倒的に無慈悲な力でそれすらも叩きのめして全部壊して欲しい! っていう気持ちがせめぎあう。ずっと怖すぎて余裕なかったけど、ヤシオリ作戦のシーンではちょっとそういう風に思ってしまった。結果的には作戦は成功したけど完全に倒したわけじゃない、っていうちょうどいい感じの、全然良くないかんじでラストシーンになったのも、完璧に叩きのめされたポイントのひとつ。

 

自衛隊が総力を結集してゴジラを倒そうとしてたところとか、はぐれものどもが力を合わせるとか、若い優秀なオネーチャンとか、色んな企業に協力を仰ぐところとか、総理が自分だけ逃げられない!と言うところとか、総理代理が頭を下げてフランスの偉い人に頼み込むとか、無人列車で見知った色の鉄道がゴジラに襲いかかるシーンなんか、オタク的にはもうめちゃめちゃアツいしかっこいいし最高だった。戦車はガルパンだし陣営の組み方は刀剣乱舞で知った単語だし、冷静なインテリと現場担当熱血主人公が仲良いとか踊る大走査線だし(?)(あとアニメ的な文脈をもちこむといえば、「やったか!?」はマジでやめてくれ…。この世界ではフラグでしかないって知ってるのに、この映画だとリアルに震え上がってしまう…)、日本スゲ~~~!!!って素直に感動してしまうし、日本は強い、すごい、日本人は偉い、誇らしい!ってすっごく思えた。

でもだめだった。これはそういう映画じゃなかった。そういうアツさや、それこそアニメ的な展開のおもしろさがふんだんにこれでもかというくらい盛り込まれていながら、恐怖が勝ってしまった。ゴジラそのものへの怖さもそうだし、被害をリアルに想像させる怖さ、リアリティの恐怖というか、つくりものっぽくない現実感を伴った怖さ。そういうのがどんどん襲いかかってきて、震えるほどにまでなってしまった。

 

いやもう、観たことを後悔するほど打ちのめされてフラフラのヘロヘロになってしまったし、泣くほど怖かった。こんなトラウマを植え付けられたのは「羊たちの沈黙」以来かもしれない。あれも観たあと殺人鬼がいるんじゃないかとめちゃめちゃ怖くて、家の鍵がしっかり閉まってるか確認してチェーンもかけて寝た。

シン・ゴジラ」、この映画をみて、いや~おもしろかった! 楽しかった! となる人とはきっと仲良くなれない。ゴジラかっこいい! となる人ともきっと友達になれない。ほんとうに怖かったんだ。ゴジラに対して憎しみすら湧いてこなかった。憎む余裕もなくひたすら怖がってた。

おもしろかった、最高だったという絶賛の感想だけに惑わされてはいけない。災害とか原爆、戦争の映像、放射能の話題とかが苦手な人はダメだと思うし、戦争を体験したことがなくて、3.11のときも家が壊れるとか身内が被害にあったとかそういうの全然なかった私ですら、ちょっとフラッシュバックをおこして怖くなってしまったよ。苦手な人は気をつけたほうがいい。それぐらいのリアリティをもって作られている。

 

いやしかし、庵野秀明監督という人はすごいんだな…。エヴァも観なければならなくなってしまった。

日本ってすごい。捨てたものじゃない。いいものがこんなにたくさんあるんだな。そう思えるのが結局嬉しいので、やっぱり観てよかった。でも後悔するほど怖かった。隣で手を握って一緒に見てくれる人が必要だった。

『非実在アイドル』のイメージ

マジLOVE1000%

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うたの☆プリンスさまっ♪All Star(通常版)

うたの☆プリンスさまっ♪All Star(通常版)


 ある日、親しい友人に「これ、面白いからやってみて!」とゲームソフトを差し出された。 それは、色とりどりの眉目秀麗な男性キャラクターが描かれたパッケージの恋愛シュミレーショ ンゲーム、いわゆる「乙女ゲーム」で、それはゲームに疎い私でも知っているタイトル「うたの ☆プリンスさまっ♪」(以下「うたプリ」)だった。2011年にアニメ化されて話題を呼び、女性だけでなく男性からも人気があり、CD、DVD、グッズにライブと様々な商業展開を見せている、 噂の一大コンテンツだ。ゲームのなかでプレイヤーは、作曲家を目指す主人公の少女になり「シ ャイニング事務所」という架空の芸能事務所が運営しているアイドル養成学校・私立早乙女学園 で、アイドルの卵であるイケメンのキャラクターたちを攻略し、デビューを目指して共に成長し ながら、恋を育むというストーリーである。攻略対象のキャラクターは後にアイドルグループを 組むことになるメインキャラクター6人+1人だが、それに加えて「シャイニング事務所」の先 輩キャラクター4人、教師キャラクター2人も続編で攻略対象に含まれている。プレイヤーは総勢 13名もの個性あるキャラクターとの疑似恋愛を楽しめるようになっている。


 ITmediaニュース (http://www.itmedia.co.jp/)の2014年1月9日の記事によると、発売元のブロッコリーは、2014 年2月期通期の業績予想を上方修正したという。この「うたプリ」ゲームソフトの新作や関連商 品の売上が好調で、「売上高は前回予想比3.8~6.4%増の64億円、営業利益は同15.4~25.0%増 の18億円に修正する」とのことだった。同期見通しの上方修正は昨年10月に続き2度目であると いう。昨今の不況の中で凄まじい伸び率であるといえるだろう。アニメビジネスの対象層は7千5百 万人といわれるが、この数字からみても「うたプリ」営業利益率は高い。実に景気の良い話である。

 この「うたプリ」、アニメ放映時に発売された、7人のアイドルたちのキャラクターソング(キ ャラクターに声を当てている声優が、そのキャラクターとして歌う)CDはオリコンランキング10 位以内に入ることもままあり、ゴールデンタイムに放送される歌番組「ミュージックステーショ ン」、深夜枠のメジャーな音楽番組「カウントダウンTV」などでもたびたび、メジャーなアーテ ィストと肩を並べてランクインしているところを見かけるほど、すさまじい業績をみせた。アニ メ終了後も根強い人気で、都内で限定グッズが販売されると早朝から長蛇の列ができ早々に売り 切れてしまったという話は一時期ネット上でも取沙汰された話題であったし、「コミックマーケ ット」でこのジャンルで参加するサークルの数も多いということも、ひとつの人気の尺度になる だろう。


 私にゲームをすすめてくれた友人は知らない間にすっかり、アイドルたる「彼ら」に 夢中になっているらしく、彼女から借りたCDやDVDを消化しているうちに、「うたプリ」がたい へん興味深いコンテンツであると思うようになると同時に、様々な疑問が湧いてくるようになっ た。そこで、このゲームのキャラクターたちをイメージ文化論的な社会のなかに存在するひとつ の「イメージ」ととらえ、今まで学んできた様々なことと関連づけて、私自身が抱いた疑問を考 えていく。なぜ、こんなにも多くの人々が、実在しない二次元の世界のアイドル— — 「非実在ア イドル」に好意を抱き、夢中になれるのだろうか。



【強烈なイメージ、ライブ映像のようなアニメーション】

 「うたプリ」は2度アニメ化されている。2011年にはじめて、3ヶ月の短期的な展開でアニメ 化されたとき話題を呼んだのが、オープニング映像である。屋外ステージで6人のアイドル達が ライブパフォーマンスをしながら作品のテーマソングを歌うというアニメーションだ。これがア ニメーションとしてクオリティが高く、キャッチーなテーマソングに合わせてアイドル達が振り 付けつきで、笑顔を振りまき踊り歌うオープニングは、原作のゲームを知らなかった多くの人々に衝撃を与えた。原作からファンだった人々からすれば一目見て「かっこいい!」と喜ぶところ だが、はじめて「うたプリ」を知った人々からは(私も含めて)嘲笑の対象で、いわゆる「ネタ アニメ」という印象を与えた。なぜならアニメーションには、熱狂的な彼らのファンとおぼしき 女性客の歓声や合いの手、ライブらしい効果音なども臨場感たっぷりに作られており、「キャラ クターたちのダンスの動きが合っていないところがリアル。ジャニーズっぽい」と評されたキャ ラクターたちの振り付けのモーションが、クオリティが高く作り込まれたアニメーションではあ ると理解しながらも、どこか滑稽に見えたのだ。

 それまでに、いわゆる「アイドルもの」のアニメ作品などで歌に合わせてキャラクターが歌っ たり踊ったりするシーンはいくつかあったが、アニメーションにそこまでこだわっている作品は 少なく、何より、そういった「アイドルもの」で愛想を振りまいて歌い踊るのは女性キャラクタ ーがほとんどだった。劇中で歌ったり踊ったりするアニメで「萌え」の対象となるものを女性か ら男性に、アニメファンたちの価値観を変えさせた強烈な「イメージ」だった。




【キャラクターグッズ戦略】

 ゲームソフト発売元の株式会社ブロッコリーは、キャラクター商品の製造販売で急成長したこ とで有名である。「うたプリ」も多くのキャラクターグッズが発売されており、このコンテンツ 産業の利益の重要な部分であると思われる。版権ビジネス(キャラクタービジネス)は、作品を 製作したことで発生する権利のうちの(1)作品や登場キャラクターそのものに関するもの、(2)企画 に携わった監督、脚本家、声優らが得られるもの、の(1)にあたる。

 もともと原作ゲームに使用されていた立ち絵(キャラクター等身のイラスト)やスチル(背景 のあるイラスト)、アニメに使われた絵を使用するだけではなく、デフォルメされた頭身の低い キャラクターのグッズも多い。かろうじてそのキャラクターとわかる程度に特徴を捉え極限まで 簡略化された、いわば記号のようなイラストでも、ファン達は喜んでそれを手にする。

 ビジネスの対象になろうがなるまいが(金銭が絡むことがあろうとなかろうと)、イラスト= イメージを作成した側とそれをみる者同士に利害関係があろうとなかろうと、イラストとして描 かれた二次元のキャラクターはひとつの「記号」に変化する。記号を解読する人々がそのキャラ クターだと判断すれば、コードを共有したことになる。大勢の人々が、キャラクターという記号 =同じイメージをみて(ある程度でも)共通の解釈をする。イメージが存在し、イメージを発信 した側に某かの意図があり、その受け手がいることでコミュニケーションが発生するとしたら、 グッズを買っていく消費者たちは、ひっきりなしに、製作サイドとのコミュニケーションをして いるといえる。

 いま、アイドルグループの頂点ともいうべきAKB48はまだ人気もそこそこであった時から、東京 秋葉原に専用劇場を設け、「物販で収益をあげる」戦略を採用している。これは、ライブアイド ル(「ライブハウスなどへの出演を主な活動とするアイドル。芸能事務所に所属していないアマ チュアも含め、インディーズアイドル、地下アイドルとも呼ばれる」※1)が古くから採用して いる戦略であるというが、「うたプリ」のグッズ戦法ともいえるアプローチの方法は、このよう な実在のアイドルを売り込む戦略とも似ている。「うたプリ」ファンたちは、キャラクターのイ メージが使われているグッズを、まるでタレントや実在するアイドルのブロマイドや写真集のよ うに扱うのだ。



【都合のよい感情移入装置】

 いままであった、実在するアイドルを売り込む戦略からも「うたプリ」が成功した理由をひも 解くことができる。

 参考文献によれば、アイドルには「感情移入装置」をどうするべきか考えることが必要になるという。ア イドルとして世に出てゆくのに重要になるもので、簡単に言えば「どうやってアイドルを好きに なってもらうか」、アイドルがファンに愛されるためにどこでその気持ちを掴んでおくか、そしてどういう形で繋ぎ止めておくか、ということだ。80年代までは歌番組がそれであり、アイドルといえ ば「アイドル歌手」をさした。80年代前半のアイドルといえば松田聖子中森明菜小泉今日子 などで、持ち歌があり歌うことでメディアに露出することが中心だった。しかし80年代後半は歌 うだけではなく、ドラマから出発するアイドルも多くなってきた。「スケバン刑事」の斎藤由貴、 南野陽子浅香唯ら、「毎度おさわがせします」の中山美穂などである。80年代以降のアイドル には、歌うだけではなく、感情移入装置としての「物語」が必要になったのだ。ちなみに、90年 代アイドルの感情移入装置はテレビCMであるという。

 


 アニメ産業での「アイドル」は、なにも劇中でそう設定されたキャラクターだけではなく、「ア イドル声優」と呼ばれる存在があることも見逃してはならない。アニメのキャラクターに声を当 てる若手の声優たちは、今や演技ができるだけではなく、歌も歌えて、トークもできて、という ように、仕事に要求される能力の幅が実に広い。時には雑誌の紙面やライブ会場、バラエティ番 組などにも露出するというように、タレントや芸人のような活動をしている。このアイドル声優 は、歌を中心に人気になった80年代のアイドルを踏襲している。紅白歌合戦にも出場して人気を 博している、アニメソング歌手であり声優でもある水樹奈々などが代表例としてあげられる。アイド ル声優は、アニメという強力な感情移入装置をもつのが強みである。声優は、アニメキャラへの 愛情の「代替装置」として機能する。声優は時たま「2.5次元」と呼ばれたりするのもそのせい だろう。

声優アニメディア 2013年 04月号 [雑誌]

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 確かに「うたプリ」の関連楽曲を聴いていると、声優がキャラクターとして歌っていると知り ながら、不思議に、ジャケットに描かれているイラストのキャラクターのほうに感情移入してし まうことが実感できる。架空のものだと理解していながら、しかも実際に声を当てている声優の存在を知っていながら、キャラクターのイメージのほうに物語やパーソナリティを付加させてしまうことは、よく考えれば奇妙なことである。



【楽曲とのタイアップ】

 「アイドルもの」のアニメーションの利点は、アニメだけではなく、劇中に登場する楽曲のCD との相乗効果が期待できるという点だ。

 例として「頭文字D」というアニメがあるが、これは実はアニメ映像のためのコンテンツではな く、音楽を売るために作られたという。小室哲哉安室奈美恵などを手がけるエイベックスが、 カーマニア向けにダンス音楽のCDを買ってもらうという目的のために作られたというのだ。車で バトルするシーンのBGMにも、ダンス音楽が印象的に使われる。

スーパーユーロビート・プレゼンツ・頭文字D?Dベスト・セレクション?

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 放映中のアニメや特撮のコンテンツと、その他の商業展開との相乗効果を期待するものはよく みられることで、例えばバンダイからバンプレストの社長になった杉浦幸昌氏はテレビ放映中の 番組からグッズ(変身ベルトなど)を作り出した(逆に、玩具をつくるために、アニメ制作会社 に企画を提案するというアプローチの仕方をはじめたのも同氏である)。

仮面ライダー レジェンドライダー変身ベルトシリーズ クウガベルト

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 「うたプリ」は1期と2期どちらも、毎回キャラクターが歌うシーンが出てくる。アニメ放映 に合わせて毎週異なったキャラクターのシングルCDを発売しており、アニメ放映時は相乗効果で CDの売り上げが大きく伸びてオリコン上位にまで登場した。「うたプリ」も、「頭文字D」と同じようにアニメを一種の広告として楽曲を売り出すことを目的としていたのかもしれない。その 目的のために、ライブシーンやアニメーションのイメージというのは大きな力になっていたのだ ろう。ひとつの視覚的な印象が、消費者に共通の世界観を生んだことではじめて、相乗効果が生 まれたのである。

うたの☆プリンスさまっ♪マジLOVE2000% アイドルソング(7)一ノ瀬トキヤ

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【『うたプリは現実』といえるまでの引力とは?】

 「うたプリ」の戦略のひとつとして、期間限定のTwitter企画がある。「うたプリ」のキャラク ターたちのそれぞれにTwitterの公式アカウントを作り、それぞれのキャラクターたちが日常の ことをツイートしたり、他のキャラクターとTwitter上で会話する。これは新しくリリースする3 枚のCD楽曲とのタイアップで、彼らの所属するシャイニング事務所が企画する「劇団シャイニン グ」で舞台公演を行い、その劇中で使われる楽曲を発売するというものである。もちろん舞台は 架空の企画で、三つ設定された舞台の内容は、楽曲CDに付属する音声ドラマで知ることができる。 キャラクターたちはTwitter上で、稽古の状況や、シャイニング事務所で起こった出来事、起床 や就寝の挨拶などを呟く。クリスマスやハロウィンなどのイベント時にはパーティーを開いた様 子や、キャラクターが食べたもの、書いた字などが写真付きでツイートされることもあり、フォ ローしているファンたちは彼らがツイートするたびに大きな反応をみせる。この企画によって、 消費者の生活にさらに「うたプリ」のコンテンツが侵入してくるようになり、単純だが実に巧妙 な「感情移入装置」となっているといえるだろう。

 ツイートに添付される写真も様々に解釈を与えるイメージのひとつだが、画像が二次元的に描 かれたイラストではなく、実在する物体や風景の写真であるということも注目すべき点である。 完全に隔絶された世界の出来事を鑑賞するのではなく、部分的に、自分たちの存在する奥行きの ある物質的世界(三次元の世界)と繋がっていることを思わせ、ツイートされた内容が架空のも のだったとしても、本当にキャラクターが実在するかのような臨場感を生むのである。
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【疑似恋愛感覚と仮想空間としてのアイドル】

 「アイドルは、虚構だから美しい」という主張がある。(実在する)アイドルへの思い入れが 疑似恋愛感覚でも、現実の恋に転化する・生きた証にすること・見返りを求めることは「粋」で はない、というのだ。『「自由なる浮気心」としての「無目的な(もしくは無関心な)自律的遊 戯」』(※2)こそがアイドルを象徴するというのだ。

 Twitterで多くの人々に拡散され物議を醸したツイートがある。 >『「ジャ二オタの友人が言ってた「うたプリファンの人すごい、プリンス様たちとは何があっても付き合えることはないのにあんなに熱狂的になれるなんて...」がじわじわきてる」』

 この「友人」が、熱狂的にファンをしていればジャニーズと付き合えると本当に考えて言った ことなのかはわからないが、これは、前述の参考文献の考え方からいけば「粋」ではない楽しみ 方である。アイドルとファンは基本的に幻想で媒介された関係であり、あえて強調するならば「一 方的な」疑似恋愛感情を誘発する。ファンは、対象が実在していようがいまいが「アイドルを好 きでいれば少なくとも嫌われない」という自己満足的な充足感をともなう「アイドル幻想」に陶 酔する。

 参考文献のなかで、『「萌え」はさしずめ、大衆消費社会のヴァーチャルリアリティにおける ピグマリオン・コムプレックスの発現であると見なすことができる。(※3)』という指摘があった。ピグマリオン・コンプレックスとは「人形偏愛症」とも言い換えることができるが、簡単に言 えば、心のない「人形」を愛するというディスコミュニケーションの一種である。しかし私はこ の指摘に疑問を抱く。人形、つまりここでは「うたプリ」に出てくるキャラクターたちを愛する ということは、実在しない「キャラクター」とのコミュニケーションと考えれば、確かに一方的 で実りのない行動だといえる。しかし、コミュニケーションの対象が別のところにあるとするな らばどうだろうか。つまり、非実在アイドルのキャラクターを媒介とした人間どうしのコミュニ ケーションこそが、非実在アイドルの存在意義だとすると考えれば合点がいく。

 アイドルを応援することは、野球やサッカーの応援スタイルと似ている。対象への興味が薄れ たとしても、仲間と遊ぶためにその「場」に通う。再びAKB48を例に挙げると、AKBは積極的にフ ァンの意見を取り入れることで、ファン同士のコミュニティを形成することに成功した。「遊び 場」としての魅力がAKBを育てたのだ。

 つまり、「うたプリ」を応援することで、ファンたちは、ファン同士の交流を楽しんでいる。 あのキャラクターがカッコいい、あの歌が好き、あのシーンに笑った、など、共有して楽しめる ということが、人気の要因になっていると考える。ここでイメージはコミュニケーションの媒体 =メディアとして機能するのである。

 参考文献から再び引用すると、『「萌え」はつねに不充足をともなっている。本来が実在しな いものをめぐる接近行為であるから、映像として所有することはできても、けっしてその実体に 到達することはできない。その欠損を埋めるためファンは空想に訴え、対象をめぐるプライヴェ イトな物語の主人公たろうとする』。そしてフィギュアやコスプレがそれを補う行動となってい る、とこの著者は説いている。

 ファン同士で語り合い、ファンアートを発信し、不充足を補い合うと いう行為が、「うたプリ」の魅力の最たるものなのではないだろうか。

(7157字/見出し含まず)



≪参考文献≫

(※1)『グループアイドル進化論「アイドル戦国時代」がやってきた!』岡島紳士+岡田康 宏著、2011年、マイコミ新書
(※2)『増補アイドル工学』稲増龍夫著、1993年、筑摩書房
(※3)『「かわいい」論』四方田犬彦著、2006年、ちくま新書
『アニメビジネスが変わる』日経BP社技術研究部、1999年

「進撃の巨人」と「マギ」の物語の男性性と女性性から見た、Sound Horizon作品の運命観についての評論

当サークルが夏コミ(C85)で、サンホラ考察本のノベルティとして発行したコピー誌に少し加筆したものです。
※「進撃の巨人」4巻まで、「マギ」11巻まで、「魔法少女まどか☆マギカ」のネタバレを含みます。

進撃の巨人(1) (少年マガジンKC)

進撃の巨人(1) (少年マガジンKC)

マギ 1 (少年サンデーコミックス)

マギ 1 (少年サンデーコミックス)

6th Story CD「Moira」(通常盤)

6th Story CD「Moira」(通常盤)



 サンホラには、6th story「Moira」をはじめ、「運命」や「摂理」、「物語」「鳥籠」といった、人の一生を決定づける(あるいは、左右する)キーワードが多く登場します。これらについて考えることは、Sound Horizonの物語を語る上で必要不可欠だと思われます。そこで、講談社・別冊少年マガジンで連載されている漫画「進撃の巨人」と、小学館・週刊少年サンデーで連載されている漫画「マギ」の物語を引き合いに出して、私なりの感性で、サンホラの物語の運命観を考えてみようと思います。

 Sound Horizonの派生として生まれたLinked Horizonは、3DS用ゲーム「ブレイブリーデフォルト」の楽曲に続き、アニメ「進撃の巨人」の前期・後期両方のOP楽曲を担当しました。OPとなる二曲と、イメージソングの新曲一曲の合わせて三曲が収録されたシングルCD「自由への進撃」は正式な発売日の前日(いわゆるフラゲ日)から連続してCD売り上げランキング1位を獲得します。「進撃の巨人」作品自体も、pixivやTwitterなどのSNSの二次創作でも人気を集めているようです。
その「進撃の巨人」の前期オープニング曲「紅蓮の弓矢」に、『何かを変える事が出来るのは 何かを捨てる事が出来るもの』という歌詞があります。《危険性》(リスク)を背負わなければ、何かを叶えることはできない、と歌っています。
 何かを成し遂げるには、対価を払わなければならない、ということは「進撃の巨人」の原作でも言われていることで、この作品の大きなテーマのひとつにもなっています。調査兵団の団員の多くが命を落としたけれど、その結果巨人化した主人公エレンが壁に開いた大きな穴を塞ぐことができた一連のエピソード、そして「戦わなければ勝てない」という印象的なエレンの台詞からも、読み解けることではないでしょうか。アニメ版最終回でも繰り返された主張であり、アニメ版「進撃」のメッセージの結論部分にあたる主張になっています。
 ここで、当サークル発行物のMärchen考察本二冊目の「お姫様と王子さま」のなかの、グリム童話についてのレポートと関連付けたいことがあります。それは、「グリム童話を楽しんでいるのは、わたしたちの子供の部分である」ということです。

 -大人は童話の中で、願いごとが叶うと、裏に代償や苦労を想像しますが、子どもはこだわりなく喜べて、物語を楽しめます。そして、大人が願いごとが叶う場面を見て喜ぶとしたら、それは私たちの子どもの部分なのです。(「グリムと昔話についての考察」より)

 つまり「進撃の巨人」は子ども向けの作品ではないということになります。大きな成功の裏には、必ず何らかの犠牲があるという物語は、痛々しいまでに私たちが生きているのと同じ現実を私たちに見せてくれます。
 「進撃の巨人」では、運命に抗って生きることを道理としていて、反対に運命に従うことを奴隷・家畜と表現し、運命に抗ってこそ人間であるとする主人公によって話が進んでいきます。コミックス4巻収録の14話のなかの、エレンの親友アルミンが「なぜ地獄のような壁の外の世界へ行きたいと思うのか」という疑問に、「オレがこの世に生まれたからだ」と答える場面は、屈指の名シーンです。この14話のタイトルがそのものずばり『原初的欲求』で、作者がこの作品を通して言いたいことは、だから「人間は生まれたときから運命に抗って生きる欲求を持っている」ことである、と言ってよいと思われます。
 「進撃の巨人」の運命に抗うのを良しとする物語性は、現実的、衝動的、非合理的であるといえます。これを作者の諫山創先生の性別にちなんで「物語の男性性」とよぶことにします。

 一転して、同じくテレビアニメ化もされた漫画「マギ」をみてみると、物語の構成は全く変わった様相を見せます。この漫画も、「運命」が最大のテーマのひとつになっている作品です。
 初期には、主人公アラジンがもつ不思議な力や、彼の奔放な性格、「ジンの金属器」からよびだされる精霊ウーゴくんの圧倒的な力で、悪者たちを追い払ったりやっつけたりという場面がよくみられます。登場キャラクターの悩みやしがらみや、物語のなかの問題を一気に打ち破ってくれる、この「成功」にはその時点では何の代償も見返りもなく、見ていてとてもすがすがしい気分にさせてくれます。現在では物語が複雑化していって、なかなかこのようなシーンは見られなくなってしまいましたが、個人的にはこの初期のファンタジーらしさ、「おとぎ話」らしい話の展開が、「マギ」の好きなところでもありますし、大きな特徴のひとつではないかと思われます。「マギ」の登場キャラクターの下地になっているのは、「千夜一夜物語」という有名なおとぎ話であることとも結びつけられるのではないでしょうか。この、「進撃の巨人」とは逆の「非現実的」な部分が、つまり「マギ」の子ども向けの物語性の部分であるといえます。
 「マギ」のなかで、人はこの世に生まれたときから、歩むべき道に沿って生き、その流れの中にいるのが辛くても哀しくてもそれを受け入れて生きている、としています。運命に従いながら人を進化へ導いていくことが良いことで、それが創世の魔法使い・マギである主人公アラジンの役目になっています。運命に抗い、その進化の流れを逆流させることを「堕転」とよび、主人公が戦うべき悪としています。人には、鳥のようなかたちで描かれる「ルフ」とよばれる生命の魂の根源をもち、本来白くあるはずのルフが、人が自身の運命を呪い、恨みや妬みの感情につつまれたとき、その色が黒く変わります。11巻の104夜、アラジンの「運命を恨むことは不幸だからね」という台詞は、とても印象的なシーンです。このアラジンの台詞に、私は大きな衝撃を受けました。不幸であると言い切ってしまうところが、「マギ」の、作者の大高忍先生の凄さだと感じます。「Moira」のエレフや「進撃の巨人」の主人公エレンとは正反対の主張で、「Moira」の物語に馴染み、共感し、支持していた私には、この台詞で「そうではない!」と頬を打たれたように思いました。
 「マギ」の運命を受け入れるのを良しとする物語性は、非現実的、理性的、合理的であります。これを作者の大高忍先生の性別にちなんで「物語の女性性」とよぶことにします。

 決して差別的な意見ではないと先に断りを入れておきますが、このように、生きることは「運命に抗う」ことだというとらえ方は男性に多く、逆に「運命に従う」というとらえ方は女性に多い気がします。そしてこれらの物語の特徴は、男性的である/女性的である、といえるのではと思います。現実的、衝動的、非合理的というのは男性の特徴で、非現実的、理性的、合理的というのは女性の特徴であるということです。実質的な意味ではなく、象徴的な意味づけとしてあてはめるならば、運命に抗う男性は「能動的」で、運命に従う女性は「受動的」であるともいえるでしょう。
 例えば「Moira」のエレフを象徴する歌詞「~女神(Moira)は戦わぬ者に微笑むことなど決してないのだから」というのは、エレンの「戦わなければ勝てない」と同じ意味ですが、これは「運命」のなかに居ることを不幸ととらえ、運命と戦うことを美徳としていることの現れです。アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」の登場人物のひとりである暁美ほむらは、自身の能力を使い何度も時間を戻して破滅の運命から主人公の鹿目まどかを救いだそうとしますが、これも「男性性」のある物語だといえるでしょう。少女達が中心で、主要キャラに男性キャラクターのいない「まどか☆マギカ」のなかで暁美ほむらは、鹿目まどかと対になる男性的な役割を担っていたのではないでしょうか。また、「Märchen」の「火刑の魔女」で主人公の修道女は、最初は修道院が打ち壊されたこと――運命に対して女性的なポジティブなとらえ方をしていましたが、最後はメルヒェンとエリーゼの導きによって運命に抗い復讐劇を遂行して、結局はネガティブな、男性的なとらえ方に変わっているということがわかります。
 7thアルバム「Märchen」の聖女エリーザベトは、運命に抗って復讐劇を繰り返す屍揮者メルヒェンの誘いを撥ね付けて「(人には)背負うべき立場と運命がある」と諭しています。「Moira」の主人公の生き別れの双子の妹アルテミシアも、生け贄に捧げるために殺されてしまっても、運命を恨むことはせずにそれを受け入れ、むしろ双子の兄エレフに出逢えたことを運命の女神に感謝しています。また「運命」とは「使命」とも言い換えることが出来ますが、この「使命」という言葉を好んで使い美徳とすることも、女性の特徴ではと思います。女性(女児)向けの物語であるいわゆる変身魔法少女ものには、選ばれた人間であるために戦う使命を背負わされ、魔法少女にはなりたいからなるわけではなく、既に運命を決定づけられた者だけが変身できるという展開がほとんどです。「美少女戦士セーラームーン」はその方向性を決定づけたものですが、セーラー戦士たちは遠い前世から、変身して敵と戦うことを義務づけられ、それがわたしの使命だから、とどんなに辛くともそれを受け入れ試練を乗り越えることを美徳としています。
 男性が運命という言葉を使いたいときは、哀しいことやつらいこと、不条理な出来事があったときで、女性が運命という言葉を使いたがるときは、嬉しいことや幸福なことがあったとき、ではないでしょうか。「運命よ!」と言うとき、男性は嘆き、女性は感謝するのです。ここに、男性の心の安定に必要なのは「社会的な地位」――能動的な行動の結果で、女性の心の安定に必要なのは「愛されること」――受動的な行動の結果、という男女の特徴の違いと関連付けてもいいのではないかと思われます。
 「物語の男性性」は、「運命」をネガティブにとらえるという方向性。「物語の女性性」は、「運命」をポジティブにとらえるという方向性なのです。


 ……しかし、これら二つの物語の特性は、正反対といえますが、それは表現の方法がそうなだけであって、結局は同じことを言っています。ですから本来は対立すべきではない意見です。
 Sound Horizonのメジャーデビュー前のCD「Chronicle 2nd」の中の一曲、「書の囁き」で<書の意思の総体>クロニカの言う「書の真理」とは、このことなのではないかと思います。「破滅の運命に囚われていた男」はおそらく何重にも絡めとられる運命=黒の歴史=予定調和の中に居ることを嘆いたのでしょうが、これと対になっている、運命を導く者であり物語の語り手とも思えるクロニカは女性性を担った存在であるといえます。物語の男性性からみればクロニカは打倒すべき悪になりますが、物語の女性性からみれば、クロニカの存在は秩序の象徴的存在であり正当な役割ともいえます。
 「Chronicle 2nd」に限らず、前述の通りSound Horizonという作品の中で語られる物語には「運命」の類義語がいくつもみられ、最大のテーマともいえます。そしてその捉え方の二面性までも表現しているということが、聴く人によって違う解釈を生み出すという効果をつくりあげ、多くの人を虜にしている要因ではないのでしょうか。この点が、Sound Horizonの大きな魅力のひとつであると感じるのです。



 2013年10月9日に発売のニューマキシシングル「ハロウィンと夜の物語」は、久々のサンホラ名義の活動での新作です。Linked Horizonでの活動を経ての変化はあるのか、いったいどのような物語が語られるのか、期待せずにはいられません。

ハロウィンと夜の物語 (通常盤)

ハロウィンと夜の物語 (通常盤)



以下は当サークルの発行物です。
「【C82新刊】火刑考察本」/「水戸オサム佐々木」のイラスト [pixiv]

「【C83新刊】姫王子考察本」/「水戸オサム佐々木」の漫画 [pixiv]

「【C84新刊】宵闇(他3曲)考察本、委託情報」/「水戸オサム佐々木」の漫画 [pixiv]